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ザ・レジェンド
2021年9月16日 更新 / 2021年9月8日 公開

【河野先生 独占インタビュー】
産業看護職としての歩みとやりがい

こんにちは、さんぽむら編集部です。

日本における産業看護の礎を築いてきた河野啓子先生。
どうやら、河野先生がはじめて「産業看護」の考え方に出会ったときには、日本の社会には「産業看護」という言葉すら存在しなかったそうです。


「産業看護」という言葉が存在しないなかでどのように企業のなかで動き、「いなくてはならない存在」にまでなっていったのか。河野先生と産業看護の出会いから、実践、そして後輩たちへの温かいメッセージをお届けします。

河野先生と産業看護の出会い

山田
山田
今日は河野先生が産業看護職として企業で勤められて、ぶつかっていった様々な問題や課題について、思い出していただきながらお話を聞きたいと思います。まずは最初、新卒からどういった会社でどういうふうにキャリアを積まれていったのかというところから、教えていただけますか?
河野先生
河野先生
はい。私が大学を卒業したのは1962年、もう古い話なんですけど、この時まだ産業看護という言葉はありませんでした。この言葉ができたのは1969年、第16回ICOH(国際産業保健学会)が東京で開かれたときに海外の産業看護職が持ち込んだ名称です。彼らは自分たちのことをIndustrial Nurseと呼んでいました。

なぜ、産業保健の世界に入ったかというと、私は大学で珍しく労働衛生(産業保健)のゼミを取って、アメリカの産業看護を中心に学んだんですけど、その「あるべき姿」そのものが産業看護の仕事なんだってことを幸いにも学びました。結果、すごくやりがいのある仕事だと思って、産業看護を生涯の仕事にしたいと思いました。ですが、産業看護はその名前もなかったくらいですから、就職しようと思ってもなかなか就職先がなくて。それでゼミの教授のコネで…あ、こんなのこと言っていいのかな。
山田
山田
大丈夫ですよ(笑)
河野先生
河野先生
コネで富士電機という企業で勤めさせていただくことになりました。
山田
山田
なるほど。
そうすると、産業看護という概念や価値観はアメリカにはあったけど日本にはほとんどなかったって考えていいんですか。
河野先生
河野先生
そうですね。昭和のはじめに、公衆衛生を専攻したNurseが、企業で結核を中心にして予防活動をしており、その後も何人かの保健師の先輩たちが企業で活動しておられましたが、産業看護という言葉はありませんでした。もちろん、概念化されてないから定義もありませんでした。
山田
山田
そういった時代に、富士電機に入られたということですね。
河野先生
河野先生
そうです。要するに「押しかけ産業看護職」なので、富士電機では誰も産業看護のことについて知るわけがない。今から考えると本当に幼いんですけど、学問として学んだ「あるべき姿」があるので、そういうものを実現できるかと思っていましたので、現実とのギャップに驚きました。

みんなが知らないのは当たり前なのに、なんかちょっと気負いこんでいったがために、ものすごくショックを受けて、本当に…本当に沈んでしまいそうになりました。だけど、やっぱり、そこで沈んでしまったらどうしようもないし、「あるべき姿」に描かれた産業看護職という仕事って素晴らしいものなんだから、これをなんとかやろうと思って努力をしました。

苦労をした富士電機時代の産業看護活動

山田
山田
入社されてからはいかがでしたか?
河野先生
河野先生
最初の1年間はそういう時代ということもあり事業場の一般社員の人たちはもとより、工場長はじめ、管理監督者も誰も産業看護のことはわからない。
本社の人事部長がわたしの希望を汲んで川崎の工場に配属してくださったんですけど、とにかく、誰も私のことを理解していただけないということで、私は本当に四面楚歌みたいな感じだったんですよね。
河野先生
河野先生
工場での配属先は診療所で、そこで働いている医療職自体も産業看護の教育を受けてないから、医療ではなく予防活動を行うという私の存在に違和感があり、当時の看護職のトップも、私に対してなんかちょっと余計者みたいな感じでの扱いだったんですよね。私自身も皆さんの足手まといになってきていることも自覚できたので、あんまりご迷惑にならない程度に「どんなことでもします」と申し出て、いろいろ関わらせてもらいたいと思ったんです。

でも、採血、外科処置を始めとする看護技術ができないのは困るということで、うまくいきませんでした。看護技術だけが看護じゃないんだけど、そういうものができない、要するに頭でっかちっていう先入観でもって、看護職トップの方も、私に対して全然期待していただけないような状況でした。
河野先生
河野先生
ですが、本社から預かった人材ということもあり、診療所の一角にちっちゃなお部屋を作ってもらって、その中に閉じ込められたような状態があったんですよね。

でも、やっぱり産業看護って人に会わないといけないじゃないですか。
山田
山田
そうですよね。。
河野先生
河野先生
そこで、私なりに社員と会うためにはどうするか、一生懸命考えました。
入社したときの所属は診療所なんですよね。
なぜかというと、当時の産業保健の位置づけは福利厚生の一部だったんです。要するに診療所があると社員も便利だな、ありがたいなと思っていた。
山田
山田
福利厚生の一部なので診療が中心になっていたということですか?
河野先生
河野先生
そうです。結核を中心とした予防ももちろんあったのですが、その占める割合はちょっぴりという感じでした。だから、そういう意味では、私みたいのは確かにその場ではそぐわない。なので、今から考えると仕方がない面もあるんですが、当時は「なんで産業看護という素晴らしい仕事をやろうとしてるのに、受け入れてもらえないのか」と感じていました。

でも、逆らってもしょうがないので、周囲をちゃんと見まわして、逆らわない程度に自分はどういうふうにすれば社員と会えるかを考えようと思いました。その結果、その診療所の中で一番バランスが良さそうな人、理解していただけそうな方を探すことにしました。
山田
山田
活動をすすめるための仲間を探したのですね。
河野先生
河野先生
そうです。それが事務長さんでした。
「事務長さん、私は今の状況では自分の仕事をする上で大事な社員と会えない。私はこういう仕事を専門にしているんですけど、なんとか少しでも近づきたいので、事務長さんお力をお借りできないですか」と相談したら、「僕に何ができますか」って言ってくださったので、「何も特別やってもらうんじゃなくて、カルテ出し(カルテを社員が来たときに出して渡す仕事)をさせてほしい」とお願いしました。

「専門職にそんなことやらせるわけにいかない」と事務長さんはびっくりしていらっしゃいましたね。
山田
山田
カルテ出しでどのように解決しようとしたのですか?
河野先生
河野先生
ただのカルテ出しではないんです。
受付でカルテを出していると、どこどこの所属の方が、どういう体調で診療所にお見えになったかっていうのが分かります。

だから、ノートをちゃんと作っておいて、どの所属の何々さんが、何月何日こういうことで見えたっていうのをずっと記録していきます。何回も何回も体調不良で見えた従業員さんと、窓口に座っていると顔見知りになりますよね。
山田
山田
多分社員の皆さんは、新しい受付だと思ったでしょうね。
河野先生
河野先生
そうです。私は最初から専門職だとは言わない。とにかくカルテを出して顔見知りになる。
何回か会ってるうちに、自分が専門職だということをお伝えして、「あなたの体調不良の理由を一緒に考えさせていただきたい。そして、根本的な何かがあったらそれを解決していくお手伝いができるという専門職なんですけど、もしも気が向いたら、診療所の奥のにちっちゃな保健指導室という看板があるから、そこに来ていただけますか」ってお誘いしました。

「昼休みでもいいし、アフターファイブでもいいし、お待ちしてます」と声をかけていくと、全部が全部じゃないんですけど、何人かは興味を持ってやってきてくださいますよね。もうそのときの喜びは本当にどう例えたらいいか分からない。

もう大事な大事な私のお客様。だから、満足度を上げないといけない。
河野先生
河野先生
ただ、残念ながらまだ新卒で力がなかったので、いろいろ話を聞かせていただいたけど正直に、私はまだ新入社員で、学校出てあまり時間が経っていない。だけど、私の恩師である教授のところに行って、相談し、その答えを探してきますのでとお伝えしました。

そしてゼミの先生に相談すると、本当に私自身を育ててくださったように熱意を持って対応してくださって、解決の糸口となる情報を提供してくださいました。
それをその社員に戻すでしょう?そうすると、満足していただけることが結構ありました。工場は組織ですから、1人が満足するとそれが伝わっていくんですよ。
山田
山田
口コミとして、ということですね。
河野先生
河野先生
そうです。ですから、私は一生懸命、もう本当に最大限の気持ちを込めて、ちゃんと社員のニーズに合うような看護サービスをするよう努めていきました。それがちょっとずつ広がっていったっていうのがあるんです。

結構、相談者も増えて、私はそういう人たちを「与党」と呼んでね、どんどんと広げていただくようにお願いをして、本来の仕事ができるように、そして産業看護がどういうものかを理解していただくように努力したんですよね。
山田
山田
ちなみに、保健指導室とおっしゃられたと思うのですが、最初は保健指導だったんでしょうか。
河野先生
河野先生
すみません、さっきは間違えました。保健指導室ではなくて健康相談室です。看板だけですけど・・・
山田
山田
看板だけ健康相談室?なるほど。
そうするとやっぱり、健康を相談するっていう場所ですよっていうところからスタートしているっていうことですかね。
河野先生
河野先生
まあ、わたしの居場所がなかったので。
当時の婦長さんが診療には役に立たない人だから、あなたのいるところって言って設置してくださったところです。なので、名前だけです。
山田
山田
なるほど。そこからどんどん従業員の方々も職場でなにか具合が悪いと相談すればいいんだっていうのが少しずつ広まっていったと。会社の中でも、評判になりますよね。
そこからどういうふうに組織の中で変わっていったんですか?
河野先生
河野先生
評判になります。なので、本当にいろんな方が誰々から聞いたんだけどって言って、いらっしゃるようになってから少しずつ少しずつ予防的な活動ができるようになっていったんですが、それまでがすごく苦しかったです。

とにかく四面楚歌だから、体重も可愛そうなくらいどんどん減りました。
その間、本社の人事部長さんは自分が採用して川崎工場に預けたので、気にかけてくださいました。本社から工場に見えると、私のところにも立ち寄ってくださって、「どう?」って言って声かけてくださるので、私も務めて笑顔を作って、「はい、おかげさまで大丈夫です」って言うんですけど、その頃体重がボーンと減っていましたから気の毒な状態を察知してくださったんですよね。

その人事部長さんが、「あなたは採用のときに産業看護という仕事をやるには会社全体の組織を知っておくことが大事だ」って言ってましたねって、ちょうど本社の教育課っていうところのポストが空いたので、そこに来ませんかって言われて。
山田
山田
いまで言う「丸の内女子」ですね。
河野先生
河野先生
そうです。私も若いですから丸の内レディに憧れたというころもあって(笑)、そして今の状況からちょっと離れてみるのもいいかなと思って。
また、企業全体を理解できるという、そういうチャンスっていうのは産業看護にとってはすごく大事なことだと思いました。
山田
山田
たしかに、貴重なチャンスですね。
河野先生
河野先生
2年間、本社勤めをしました。そして、2年たって、本来の仕事場である工場にやっぱり戻らないとと思いました。

さっき言った少し理解くださる方たちが、私が本社にいる間も声をかけてくださったりしたこともあって、工場に帰ってきたら健康相談室ではなく、「健康管理室」っていう名前と一緒にきちんとしたお部屋を作ってくださったのです。

3年目に帰ってきたときも診療が中心ではあったのですが、恐らく予防活動も10%ぐらい拡大してきて、診療所の中の一角になりました。

予防活動の本格化

河野先生
河野先生
それから本格的に産業看護活動をやっていかなきゃいけないって思ったんですが、その前に、自分が何者なのかということを、もう少しきちんとした形で知っていただくということがすごく大事だと考えました。
山田
山田
ええ、専門家として何ができるのかというところですね。
河野先生
河野先生
何をやる人か、どういうお役に立つのか。それも社員だけではなくて、工場の幹部の人たちにも分かっていただきたいと思っていました。双方に働きかけているときに、その頃って結核が工場での予防活動で大きなウエイトを占めていたんです。当時の工場は大きな組織で8,000人ぐらい従業員がいたので、500〜600人くらい結核の要観察の方がいたのです。

だから、今、工場のニーズは感染症、結核の人たちをなんとかコントロールすることだなと気がつきましたので、そういう思いで関わらせてくださいと申し出て、健康管理室時代は結核の要管理者のフォローアップという仕事を重点的にしました。
山田
山田
なるほど、そのとき健康管理室は1名だったんですか?
河野先生
河野先生
ナースのアルバイトさんが1名いてくださったのですが、実質的な仕事はほとんど1名でしたね。
河野先生
河野先生
そうこうしてるうちに、結核がだんだんコントロールされて、工場の産業保健課題の大きな枠から少し離れてきたときに、1970年代に入って、職業性疾病がまた大きく浮かび上がりました。川崎工場は重電機製造のため、さまざまな職業性疾病があったんです。なかでも私がなんとかしなければ…と思ったのは鋳物工場におけるじん肺対策でした。

じん肺問題は深刻で、私が入社したときにもうすでにじん肺の管理区分が3とか4という方が複数いました。富士電機は病院を持っていたので、区分4の方はそこに入院してらしたんですね。お見舞いに行ってご挨拶したときには苦しそうで苦しそうで。
山田
山田
そうですよね、胸が苦しいんですよね。
河野先生
河野先生
そうですね。こんな病気にかかるなんて、なんと痛ましいことかと思いました。
ほかにも水力発電機や火力発電機を製造していたので、大きな鉄板を溶接して製管する作業があって、ここでは騒音がものすごく大きくて難聴の人も多かった。だから、従業員のQOL向上に貢献することを専門とする産業看護職としては、これもなんとかしなければと思いました。じん肺も騒音性難聴も今の医学では治せない、予防しかないということで、この2つにまず目を付けたのです。
山田
山田
ちなみにその2つ選んだのは、先生が「やっぱりそれって課題だよね」っていうところをご自身で考えられたのか、それとも会社側もしくは工場長とかが、「これってなんかやっぱり嫌だよね」、と両方の思惑が一致するものなんですか?
それとも、どちらかというと先生主導で課題として考えたのかっていうとどんな感じだったんですか?
河野先生
河野先生
わたしの方できめました。

工場では鋳物作業者を対象に、じん肺健診などやってきたんですが、後追い的なものだけで、先取り管理と言われる、作業環境管理や作業管理はやられてなかったんですね。CSRではないですが、せっかくこの会社に入社してくださった方をそんなひどい目にあわせるなんていうことは考えにくい。ストレートには言いませんでしたけれども、とにかく私はじん肺対策に何かお役に立ちたいと思うので、それをやらせてくださいって最初にお願いしたんです。

そうすると企業側は、なんで看護がそんなことをと。。。
山田
山田
なぜ看護がそんな口出しをするのかと言われてしまうわけですね。
河野先生
河野先生
「産業看護」が知られていなかったんですから仕方がないですよね。

ただ、じん肺対策も本当にうまくいったんです。私がどうのこうのじゃなくて、やっぱり現場の管理監督者がじん肺予防の意識を持って、今でいう労働衛生の3管理を中心にどうやったら粉じんがおさえられるかということをしっかり考え、行動していただくようにした結果が、成功をもたらしたと思います。

そのために、産業看護職としては、管理監督者とのラポールの形成を図る努力をしました。そうやって信頼していただいたところで、こちらのあんまり実力もなかったんですが、でも可能な限り、それこそ恩師の力を借りて、いろいろと管理監督者をサポートしているうちに、少しずつ粉じん作業場の環境がよくなっていったんですね。
山田
山田
知識や経験が少ないなかでどのように自己研鑽をしてこられたのですか?
河野先生
河野先生
私は国際会議になるべく行くようにと思い、会社側に申し出たんですけど、当初「なんで看護職がそんなところまで出かけていかなきゃいけないわけ?」と言われ、許可が下りませんでした。今ではさまざまなデータベースで世界中から情報が得られますが、その当時はそんなものがないから、直接学会に行って、人とのパイプを作るというのが主流だったので、ICOHに行かせていただきたいって伝えたのですが、実績がないので会社側はもう全然そんなの駄目と。

それでも私は、じん肺対策に貢献したい、そのためには世界の仲間から学んでいく必要があるって言って、許可が出ないうちは休暇を溜めて、自分のお金で行ってたんですよね。自分の休暇で行って、お金も自分で出しているから本当は会社に成果報告する義務はないですが、そんなみみっちいことじゃなくて、私はここで働く人たちのためのじん肺対策にお役に立つために国際会議に出席しているのだから、と必ず学んできた情報や得てきた情報を関係部署に提出しました。
山田
山田
本当に大事ですね。
企業側からのコメントや反応はありましたか?
河野先生
河野先生
はい。鋳物砂ってあるじゃないですか。当時わたしたちの工場で使用していたものは、遊離ケイ酸がいっぱい入ってたんですよ、珪肺の原因になるもので。
ちょうどイギリスの産業看護職がVolvoっていうスウェーデンの会社に優秀なナースがいて、その人が車のエンジンを作るときの鋳物工程で、鋳物砂に関する研究を発表するという情報を与えてくれました。これだ!と思って。それで、ちょうどアイルランドで国際会議があったときに、帰りにスウェーデンの彼女のところに付いていって、いろいろな学びをさせていただきました。
山田
山田
国際会議のあとに立ち寄ったのですね。
河野先生
河野先生
そこでいろんな情報をいただいて、その鋳物砂をオリビン・サンドっていう物に変えていくことによって、かなり化学性が低くなるから良いということも聞きました。

工場には生産にあたり技術的な面を検討する作業研究課があるので、健康のこともそこで考えてもらいたいと思い、いただいた資料を持ち込んで提案しました。じん肺の発症率が違うというエビデンスがあるので、検討をお願いしたいと提案したところ、運良く受け入れていただきました。

やっぱり彼らもじん肺の怖さを知っていますので、熱心に検討してくださったのですが、コストが5%アップという結論になったことから、すぐには実現には至りませんでした。
山田
山田
そうですよね。結局、材料変えるとなると、彼らも仕事とかお金がかかってくるから、なかなか理解いただくのが難しいところもあったりする。そこをどう交渉するかみたいなところですもんね。
河野先生
河野先生
でしょ?
確かに企業から見るとコストが上がるって大変なことだから、もうちょっとコストをなんとか解決できないかと思って。

スウェーデンの仲間からの情報によると、少しずつ開発されたものがコストダウンしたと。それから作業研究課に優秀な課長さんがいらして、その方が安全と健康を守るために、他の生産工程でもうちょっと経費が切り詰められないかっていろいろ考えてくださって、一応採算が合うところまでいって、そして導入という流れになりました。
山田
山田
素晴らしいですね!
河野先生
河野先生
そうでしょ?
だから私はそのときすごく感激して、やっぱり働く人をあんなひどい、じん肺にかからないようにする。
この仕事の喜び、そしてやっぱり周りの人たちと一緒に目的を達成することの喜びですよね。

自分は本当にちっぽけな専門職に過ぎないんだけれども、でも周りには同じ考えや目的を持った人たちが組織にいらっしゃるので、どのように仲間を見つけるか。そこが目の付け所ですね。どことどことどこにパイプをつなぐと、私の願っている「働く人の健康とQOLの向上」と、それから組織の「生産性の向上」に貢献できるかということをいつも頭に置きながら、いつもアンテナを張って仕事をしていました。
山田
山田
とっても大事ですね。
河野先生
河野先生
一度、一つの目標を共に達成した方たちは、本当に産業看護を分かってくださるようになって。
私が産業看護はこういうものだっていうことを伝えることも必要なんですけど、それよりもやっぱり一つひとつの仕事を通して、ああ、これが産業看護なんだっていうことを実感してもらうようにすることが大事じゃないかということが確認できました。

労働安全衛生法の制定と活動範囲の広がり

山田
山田
ちなみに、そういう中で健康管理室が健康管理センターに移ったり、健康推進センターみたいなかたちで少しずつ変わっていったということをお聞きしました。これは例えば予防にかかわる看護職の人数がどんどん増えていったとか、どういうことをきっかけに名称が変わっていく、役割も恐らく広がりが見えてくるみたいな変化につながっていったのでしょうか?
河野先生
河野先生
健康管理室から健康管理センターになったのは、職業性疾病対策に本格的に取り組み始めたときです。
そこでいろいろ予防対策をやっていたのと、1972年に労働安全衛生法ができたことが大きかったです。
山田
山田
活動の転機になったということでしょうか?
河野先生
河野先生
はい、どちらかというと、安全についてはラインの管理監督者が主体的にやっていたんですけど、衛生については専門職に依存してるというかな、なんか健康のことは専門職に依存している状況でした。
山田
山田
丸投げしてしまえばよいと?
河野先生
河野先生
そうですね。丸投げ。そういう傾向があったんですね。
健康管理センター時代に協力しながら職場の作業環境管理・作業管理を実施していった、じん肺作業や騒音作業の関係職場の管理監督者は、だいぶ衛生についても自主的な活動をしなければならないことについて分かってはきたんですけど、全体的にはなかなかうまくいかないという状況でした。そういうときに、ちょうど労働安全衛生法が1972年に制定されました。

なかでも事業者責任が問われるということがすごくありがたくて。
私たち専門職が引っ張っていくのではなくて、事業者責任だから、まさかトップの方が自分でやるわけにいかないので、管理監督者が代理をするわけじゃないですか。

山田
山田
安全と同じように衛生も労働安全衛生法に基づく、とちゃんと主体的にラインがやらないといけないってことがはっきりと決まりましたね。
河野先生
河野先生
そうですね。職業性疾病対策もやりながらだったんですけど、それに加えて、当時はいよいよメンタルヘルスと作業関連疾患が大きな健康課題になってきました。

職業性疾病の場合だと、健康管理というのは「管理」でもいいかもしれないけれど、メンタルヘルスとか作業関連疾患は生活習慣をより良くするということで重要になりますから、主体は社員で、専門職は支援するという立場がはっきりするわけですね。

そこで、私たちの立ち位置をはっきりさせるために、私は1980年代になって健康管理センターを健康支援センターに変えることを提案しました。自分たちのスタンスは支援だからと言って会社側に提案したのですが、時期尚早ということで会社が受け入れがたいと言ったので、じゃあ、健康推進センターはどうかということで名前を変えました。
河野先生
河野先生
職業性疾病の対策は一応軌道に乗って、今度新しい課題の健康づくりになったときに、その名前が健康推進センターに変わりました。世の中はこのようにどんどん健康課題が変わってきて、それに対して企業もちゃんと責任を果たしていかなきゃいけませんから、産業看護職にとっては、その専門性を存分に発揮できるという、いい風が吹いてきたんですよね。

要するに職業性疾病が課題の中心のときは、自分たちの専門性を分かってもらうために一緒に活動しましたけど、どちらかというと作業環境管理などは関わりは持たなければなりませんが、そんなに専門ではない。だから提案ぐらいはできても、自分の力を最大限に発揮するっていったらやっぱりメンタルヘルスとか健康づくりなので、時代がそういうふうになってきたのです。

そうやっていくうちに、少しずつ予防をやる看護職が増え、この時期に4人に増えていきました。
山田
山田
先生の中で、例えば健康推進するとしたとき、もしくは健康管理センターでもいいんですけども、産業看護職の採用や役割分担はどのようにやられていたんですか?
河野先生
河野先生
企業が人を1人雇うっていうのは大変なことですから、ちゃんと産業看護職のパフォーマンスが上がっていることを示す努力をしましたね。また、コストベネフィットを考え自分は役に立つというエビデンスを常に出すことも心がけました。
山田
山田
さすがですね。
河野先生
河野先生
例えば当時は今と違って、ものを作れば作るほど売れる、そういう時代だったので、1人の人が休むと1日当たり平均何万円か失うことになるわけですよね。
だから、健康づくりを進めて私たちの活動によってどれぐらい欠勤者(アブセンティズム)が少なくなるかをちゃんと計算します。
工場には製品の原価を考える部署がありますから、そこに1人当たりの平均のコストを伺って計算し、失われている日数×1日当たりのお金、それを概算して…だいたい9年間ぐらいの経過を見ました。
山田
山田
9年間ですか!?
河野先生
河野先生
そう、9年間です。
今、この起点で疾病休業率がこれだけ。それで9年間追いかけて行ってこれぐらいになった。
そしたら毎月3,000万ぐらい失われてたのが930万になったんです。

この成果をグラフにして共有しましたら、工場長や上の人にも納得していただけました。
山田
山田
はぁ、すごいですね!
河野先生
河野先生
それから健康保険組合がありますね。
健保組合の支部が全国にいくつかあって、うちは親工場でしたし、重電機をつくっていましたから軽薄短小がもてはやされる時代にあっては儲からず、赤字を重ねていました。そのため新入社員が入らず、一番高齢化していたんです。
本来だったら医療費も一番高いわけですよね。ですが、他の工場は若いのにみんな健保が赤字、うちだけ黒字だったんです。
山田
山田
すごい。素晴らしいですね。
河野先生
河野先生
そうです。素晴らしいと私も思うんですけど。(笑)
そういうふうにして、工場長としては、社長が巡ってきたときに昔は健康管理のところなんか全然出さなかった。
でも、成果が出てからは真っ先に疾病休業率の表とか健保の成果を出して「うちはこうです!」と言って、自慢してくださるようになったのです。
山田
山田
社長にしっかりアピールできますよね。
河野先生
河野先生
やっぱり、経営者にとって生産性の向上ですよね。そのことが示せるデータを差し上げないといけないと実感しました。

今、かっこいいことばかり言ってますけど、私は失敗もしているのです。もう根が真面目なものですから(笑)、1年間の私たちの活動報告を200ページぐらいにまとめて工場長に報告していました。今考えてみると忙しい工場長に見ていただけるわけがないのですが…

私は毎年自分たちの活動をまとめたものを工場長の秘書さんに預けていたのです。当初は、簡単なコメントをいただいていたのですが、何年か経つうちに、1週間たっても反応が何もなかった。これだけ一生懸命時間をかけてまとめたのにと思って、秘書さんに「1週間たちましたけど、何もコメントがいただけないんですけど」と伺ったら、「その日にINのボックスからOUTのボックスに出てましたよ。だから、特に何か感銘することもなかったんじゃないですか」って言われてしまいました。

それはそうだと思って総務部長さんに、「私はこんな報告書をまとめて工場長に出してるんですけど全然コメントがないんです」って言ったら、
「あなた、看護職でしょ?看護って相手の立場とか相手の状況に合わせていろいろケアする」って、あなたいつも言ってるじゃないですかって。それなのに工場長の立場を忘れてますよと言われて。
山田
山田
なるほど、手痛いですね。
河野先生
河野先生
そう、手痛いコメントですよね。本当にグサッときましたが、本当のことをおっしゃってくれていると思いなおしました。

ありがたいアドバイスとして、「この200ページをA4の1枚にまとめる。やってごらん」って。「僕がそれに関してコメントを出すから」とおっしゃってくださったのですけど、とてもじゃないけど難しくて、かなりの試行錯誤を繰り返しました。

それで、さっきのコストパフォーマンスのよく分かるグラフを書いて、計算式を下に置いて、これだけ1カ月で儲かっていますというのを分かるようにした資料を作成することに行きついたというわけです。
山田
山田
すごい、なるほどなぁ。
河野先生
河野先生
だから、そういう失敗もたくさんしているんです。
山田
山田
いっぱい失敗している中でどうすれば物事が進むのか、経営者とか工場長も納得してくれるのか、それを彼らの目線で会話をしていく、そしてエビデンスを出していく。結果的に人を増やすこともできる。
河野先生
河野先生
半導体をはじめいろいろ他の製品の製造を他の工場でやっていますから、富士電機全体はもちろん利益を上げていたんですけど、川崎工場は重電機ですから、先ほども申しましたように重厚長大でその頃すでにどんなに社員が一生懸命働いても赤字だらけ。

なんで赤字事業をやるかというと、社会的な責任で発電機を買ってくださった方のメンテナンスもありますし、やめるわけにいかないんですよね。そのため、新しい人は採用されないのでどんどん高齢化していっている状況でした。だからこそ健康づくりを進めて、同じ50歳でも40歳ぐらいの年齢を保てるように、そこに私たち産業看護職は貢献できると思いますと工場長に申し上げました。
山田
山田
看護職を採用するにあたって、企業側から反対はありませんでしたか?
河野先生
河野先生
増員の必要性の理由をちゃんと付けて、それで納得してもらうようなかたちで提案していきましたので、反対する人は別になかったですね。私も需要があると分かってるから、決してオーバーに、必要以上にってことはもちろん考えませんでした。

会社の実情っていうのかな。会社全体を包括的に理解していくことの大切さ、これは大事だと思います。
だから、集団組織のアセスメントツールの本にも書きましたけれども、やっぱり組織全体を包括的に理解しているようにならないと、きちんとした産業看護活動はできないということを、若い人たちに伝えたいと思います。
山田
山田
なるほど。
河野先生
河野先生
理想はこうだけれども、でもやっぱり、実情としてそんなことは今はできない。
今できることはなにか?できることからひとつずつやっていくと、お金もかけないでできることも結構あります。
だからそういう姿勢を心がけていました。自分の主張や「あるべき姿」を追い求めてばかりいたら決してうまくいかない。でも専門職ですから、頭のなかには理想とする「あるべき姿」を常に置いておかないといけないですよね。自分たちが何をする人か、すなわち社員の健康とQOLの向上、そして企業の生産性の向上に寄与できる専門職であることを常に意識することが大事だと思います。

産業看護職の皆さんにお伝えしたいこと

山田
山田
会社の実情を理解しながら、広く捉えていくってことですよね。視野も広くしておいて。いやあ、先生すごいなぁ!
まさに今の産業看護職の方々に聞いてほしいなっていう内容だったと思うんですけれども、最後に先生から産業看護のやりがいとか喜びがどういうところにあるのかをガッツリ伝えてほしいなと思ってるんですけど大丈夫ですか?
河野先生
河野先生
大丈夫ですよ。さっきも言いましたが、産業看護の魅力は、ひとつは社員の健康とQOLの向上に確実に貢献できることです。なぜかというと、産業看護職は、長い間、社員と一緒に労働生活を送りますので、看護の基本である対象者(社員)とのラポールがとれるからです。ラポールがとれると信頼関係が深まり、いろいろな情報をいただけるようになりますから、対象者にあったきめ細やかな健康支援ができます。その結果、社員の健康とQOLの向上に役に立てるとういことになります。
河野先生
河野先生
それからふたつめは、確実に企業の生産性の向上に貢献できることです。私は自分の経験から、産業看護職は「日本の元気を支える」大事な存在だと思っているんですけど、そういう仕事ができるという喜びは大きいですね。

それともうひとつ付け加えると、自分自身の成長の機会に恵まれるということも、産業看護職の魅力ですね。さっきの総務部長のお叱りと励ましも、確実に私を育ててくださった例だと思います。
山田
山田
業務だけではなく、人間としても、ということでしょうか?
河野先生
河野先生
そうですね。企業にはさまざまな専門職の方たちがいらっしゃいますので、その方々にいろいろなことを学ばせていただき、本当に成長させてもらっていました。今でも未熟者ですけど、少しまともな人間になってこれてるのかなとの思いです。(笑)

自己努力はもちろんですが、そういうふうに育ててもらえる場は、貴重だと思います。これに関しては私だけじゃなくて、私の夫がいつも「産業看護の仕事をしたから、あなたは大人になった」っていうふうに表現しています。(笑)
山田
山田
なるほど。旦那さまもそういうふうにおっしゃられてるぐらいなんですね。(笑)
河野先生
河野先生
そうです。私もたくさん学ばせてもらいましたので、世の中にこんないい仕事があるのかといつも思うんですよ。

ただ、現在でも産業看護の社会的認知は十分とはいえず、実際の活動にあたっては、困難を伴うことが多いと思います。ですが、諦めてしまったらダメなのです。「継続は力なり」といいますが、どんな困難があっても、どこかにかちょっとでも光のみえる部分があります。だからそこを突破口として、どうやって自分の専門性を発揮していくかを考え続けることが大切と思います。
河野先生
河野先生
最終的なゴールである産業看護の「あるべき姿」に到達するために、あるときはちょっと後退することがあるかもしれない。しかし、後退してしまっている間も、どうやったら最終的なゴールにたどり着けるかって努力を続けることが必要なので、産業看護職にはかなりの忍耐が必要です。

後輩の皆さん、この忍耐は厳しいものですが、これを経てのゴール達成の喜びは、ひと際大きいものがあります。これは、経験者の私の実感です。
山田
山田
なるほど、そうですよね。すぐに結果が出るものじゃないですもんね。
河野先生
河野先生
会社の私に対する最大の評価は、先任の産業看護の先生の急逝により、私が急に産業医科大学医療技術短期大学専攻科に赴任しなければならないというころになったとき、会社が辞表をなかなか受け取ってくれず、その赴任が6ヶ月延びたということです。その時はつらい思いをしましたが、今考えるとありがたい評価だったんだと思っています。
山田
山田
そういったかたちで、企業からの評価を感じられた。本当に素敵なエピソードですね。

本日は、お忙しい中貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました!
河野先生
河野先生
こちらこそ、ありがとうございました。

日本産業看護学会のご案内

河野先生が理事長を務める、日本産業看護学会では
2021年11月6日(土)、7日(日)で第10回学術集会が開催されます。

河野先生も記念講演でお話いただけるほか、教育講演も日々の業務で活かせるものが多くあります。
非会員の方もご参加いただけるそうなので、ぜひご覧ください!

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執筆・監修

  • 河野 啓子
    このテーマを話した人
    河野 啓子
    1962年、東京大学医学部衛生看護学科卒業。
    同年富士電機株式会社入社、産業保健の第一線で、働く人々への健康支援を看護専門職として実践する。
    1989年、産業医科大学医療技術短期大学専攻科教授。東海大学健康科学部教授、同大大学院健康科学研究科看護学専攻主任教授、日本赤十字北海道看護大学大学院教授を経て、2007年より四日市看護医療大学学長。2013年より同大学名誉学長。
    1996年より、日本産業衛生学会産業看護部会長。2012年12月より日本産業看護学会理事長を務める。
  • さんぽむら
    この記事を書いた人
    さんぽむら
    さんぽむらは、「産業看護職の価値を高める」コミュニティ。
    スキルアップやキャリアにまつわるお役立ち情報を発信しています。

お役立ち資料

  1. 定期健康診断の事後措置ガイドブック 冊子版(PDF)
    健康診断の義務は、実施よりも"事後措置"の方が重要です。業務効率化を図りながら、ミス・モレのない実務ノウハウを解説します。
    健康診断
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  2. 健康経営2021 ステップアップ講座
    2020年は健康経営推進担当者にとって波乱の年になりました。今年そして来年以降の健康経営計画の見直しをふまえた、最短で認定取得を目指すステップアップ講座です。
    健康経営
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  3. 特殊健診は怖くない!有機溶剤編
    初めて特殊健診を管理する保健師・衛生管理者向けに、「有機溶剤予防規則に基づく健康診断」について解説しました。(監修:産業医・労働衛生コンサルタント 山田洋太)
    健康診断
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  4. ー改訂版ー
    オフィスの感染予防 対策ガイドラインの解説
    経団連が発表した感染症対策ガイドラインをさらに深堀って解説します。抽象的な指針だけでは分からない、実務レベルの対策を解説しています。
    テレワーク / コロナ
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  5. 健康診断をペーパレス化。メリットと外部業者の選び方
    まだ紙で管理しますか?延べ200社の健康診断の管理をペーパレス化してきたから分かった、人事労務・保健師の業務を効率化するコツと運用法を解説します。
    健康診断
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  6. 「健康投資管理会計ガイドライン」を会計士が人事総務向けに解説
    公式では分かりづらい管理会計のガイドラインを、労働安全衛生法に精通した会計士が分かりやすく解説します。
    健康経営
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  7. 人事が主導する、健康経営スタートガイド
    社員食堂の整備やウォーキングの目標設定よりも、前に実践すべきことがあります。人事の仕事がラクになる健康経営のコツを紹介します。
    健康経営
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  8. 健康管理費のコストカット表
    会社から経費削減を命じられているものの「健康管理費はどこまで削減していいものか」分からない方へ。従業員の健康を守りながらコストを削減する事例を紹介します。
    健康経営
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  9. 働き方改革の新しい義務『健康情報管理規程』の策定マニュアル
    厚労省から公表されているサンプルでは分かりづらい、という人事の方へ。ハンザツな規程作成が5ステップで完了します。
    法律 / ガイドライン
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  10. 集団分析の社内報告マニュアル
    ストレスチェック担当者が、上司・経営者から評価を得るために。厚労省の判定図の正しい読み方から社内報告の方法を産業医視点で解説します。
    メンタル / 過重労働
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  11. 急増するテレワーク中のメンタルヘルス対策と、失敗する予防策
    テレワークとオフィス勤務が混在する働き方の企業向けに メンタル不調者への法的に正しい実務対応を30分で解説します。
    テレワーク / コロナ
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  12. 健康管理検定 中小企業の法令遵守編
    本セミナーは従業員数50人〜200名程度の企業が対象です。 あなたの会社では健康管理の法的義務に正しく対応できていますか?
    健康経営
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  13. ベテラン人事こそ失敗する、休復職者対応5つの落とし穴
    「スムーズに復職は、休職前の準備は大事」 人事の工数を最小限におさえる休復職対応を、保健師が解説します。
    産業医
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  14. 2021年度、コロナ禍での健康診断を再計画
    コロナ禍で重要度があがった従業員の健康管理。 2021の健康診断では、ルールの正確が必要です。最近情報は30分で紹介。
    健康診断
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  15. 先回りメンタルヘルス対策
    -IT企業編-
    クリエイティブ職が多いIT企業だからこそ注意が必要なメンタルヘルスの予防と対策。心の問題以外にも焦点をあてて解説します。
    健康診断
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  16. 上場企業の常識になった、衛生計画の上手な立て方
    人事や専門家(産業医や保健師)がチームとして健康管理に取り込むためのツール「衛生計画」の実務的な作業方法を解説します。
    健康診断
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  17. 健康管理検定〜初心者担当者レベルアップ編
    人気セミナーをシリーズ化。「健康管理はやっぱりなしでも全部はできない」で悩んでいる労務・総務担当へ実務のコツを紹介します。
    健康診断
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  18. メンタルヘルス対策と健康経営への活用
    これまで注目されてこなかったストレスチェックの集団分析を通して、 見えにくい従業員の健康課題をデータから客観的に表します。
    健康経営
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  19. 健康診断・健康情報をペーパレス化した失敗事例と成功のコツ
    バックオフィスのDXが進む中、健康情報の個人情報保護の関係で ペーパレスが遅れています。正しいペーパレス事例を紹介。
    健康診断
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  20. 脱,やりっぱなしのストレスチェック
    高ストレス者の対応だけで終わらせるのはもったいない 生産性をのばす科学的分析と実務のコツを30分で解説
    調査レポート
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